kidd(奈賀井 猫)のぺーじ
山岳書店
ブックパンク軽SF、2014年
音と映像とVRが読書体験の主流となった未来。電気とネットワークのない山村に「紙の本」の販路を見出した二人の行商人は、極東から来たスーツ姿の男に出会う。男は山頂の気象観測所跡に遺された書物に用があるというのだが…。
山岳書店
店長が村の爺さんたちへ話をしに行った間に、ぼくの足元には子供たちが集まってきた。
「ほらちょっと待って、いま開けるから」
ぼくは担いできたコンテナを地面に下ろした。何しろ重い。麓から足腰のアシストスーツを使ってきたのに重い。この村に来るまでに、中身は多少減っているはずなのだが。
子供たちは容赦なく群がってくるから、ぶつけないように気を使う。石ころだらけの山道をずっと担いで歩いてきたというのに、一息つく暇もない。
コンテナを開けると子供たちが小さな歓声を上げた。子供たちは押し合うようにして箱の中を覗き込み、どれを手に取ろうかと真剣な顔になっている。
「リコにいちゃん、これ見ていい?」
「いいけど、前のやつは読んだかい」
声をかけてきた子供はぼくの返事を待たず、コンテナから絵本を出して広げている。コンテナの中身は全て、本だ。
ぼくと店長は数か月に一度、こうして本の行商をしている。麓の店から本の箱を担いで、車が通れない道を歩いて登り、集落を回っては本を売る。
子供たちが本を広げて黙り始めたので、ぼくはコンテナの蓋を拾い上げて座った。
蓋にはソーラーパネルが取り付けてある。パネルから蓋の裏へと配線を通して、その先に繋がっているのは、ぼくのリーダー端末だ。充電は既に終わっていた。
晴天続きのこの季節、白茶けた岩だらけの山道。日中は眩しくて、目がどうにかなりそうな環境だ。ちょっとした端末なら、このソーラーパネルで何とかなる。
ぼくは山肌にへばりつくような段々畑の、そこだけ日差しを吸い込んだかのように濃い緑を遠くに見て、コンテナの蓋からリーダー端末を外した。手のひらほどのディスプレイパネルに蔵書が並ぶ。
イヤホンを耳に指して再開ボタンを押せば、音声とともに文字と映像が流れていく。
音と映像がストーリーを補完し、言語外のリアリティを伝えてくれる。VR用のバイザーは持ってこられなかったが、それでも読書ではある。いや、本体出力だけでこの表現力。数世代前の型とはいえ、さすがは極東の高級品だ。
ぼくは最も普及した読書スタイルを普通に消費しながら、同時に紙の本を行商している。しかも徒歩で。爺さん婆さんが若かった頃だって、もうそんな時代じゃなかったはずだ。
音も映像もない、VRにもつながらない、ネットワーク上にバックアップもできない、紙の本。麓の店には物好きの趣味人しかこない。
かつて世界中に、それこそ星の数ほどあった書店と印刷工場のほとんどがその標高を海水面に追い越されてからというもの、本とはすなわち組版データとなった。本は紙というオフラインメディアから、流通効率と表現力の優れたリーダー端末へ乗り換えた。ちょっとした歴史の雑学だ。
このご時世に店を続けるため、店長は電気と物流とネットワークから取り残された山岳地帯に販路を見いだしたのだ。
「おいリコ、せめてこういうときは紙の本を読んでくれ。リーダーを手放せとまでは言わんから」
店長が爺さんたちのところから戻ってきた。村の顔役たちへの挨拶が済んだようだ。背中から足腰までをカバーしたアシストスーツはつけたままだ。
「なんだ、もう広げてんのか」
「チビたちがもう待ってられなくて」
「まあいいや、村長から商売の許可は貰ったからよ。始めるぞ」
店長のスキンヘッドに反射する日光が眩しかった。今回もつつがなく、ささやかな商いができそうだ。
ぼくはコンテナに群がる子供たちの傍らに座って店番をする。やがて小さな女の子が古い雑誌を差し出してきた。
「これください」
旧世紀の科学雑誌だ。表紙には宇宙空間を飛ぶ探査衛星のイラストが描かれている。
「大丈夫か? 難しくない?」
女の子は太陽系の惑星軌道を描いた折り込みポスターが気に入ったようだ。
「だいじょうぶだもん! えっと……水星でしょ、金星でしょ」
「そうか、すごいなあ」
ぼくが笑っていると、こんどは背後からもう少し年上の男の子に声をかけられる。
「リコにいちゃん、こないだの続きあった? 大どろぼうの……ホ……ホッチェ……」
「ホッツェンプロッツの三巻なあ、ごめん、まだ入荷できてないんだ」
「そっかあ」
「見つけたら絶対とっとくからさ。同じ人の別の本あるけど、見る?」
「うん」
男の子は頷いてコンテナのそばにかがみ込んだ。
少し離れたところで、店長は初老の男性客と話している。ぼくのものより一回り大きなコンテナのそばで、二人は秘密の談合みたいに頭を寄せ合っている。おおかた、グラビア印刷のインクの盛りがどうの、被写体の肌の滑らかな階調がどうのと、そんなところだろう。
「いいですよねえ、旧世紀のスイムスーツ」
「この海をナメきった布面積、いやあ実にけしからんですな」
やっぱり。
ぼくは店長の大人向け書店から目を離し、村の様子を見た。視線の先に今夜泊めてもらうだろう村長の家がある。その戸口に濃紺のスーツ姿の男が座っていた。
スーツ? この山の中で? ぼくはその男をもう一度よく見たが、男が店長よりは若いということと、短い黒髪に寝癖がついているということしかわからなかった。
スーツ姿の男は戸口に座ったまま、ぼくらが本を売る様子を眺めていたが、やがて大儀そうに立ち上がり、ぼくに向かって歩いてきた。足元は革靴で、少しふらついている。顔色もあまり良くない。
店長と話し込んでいた初老の客が彼に気がついた。
「おおあんた、もう具合はいいのかい」
「ええ、ずいぶん良くなりました。ありがとうございます」
少し堅苦しさのある、綺麗な話しかただ。発音も、語彙も、やっぱり異質な印象を受ける。
「今日は本屋さんが来てるんだ」
「変わったお客さんだな、見てってくれ」
男は店長とぼくを交互に見た。それから俯いてなにやら呟いていたが、急にがばと顔を上げ、店長を見た。
「あなたがたにお願いしたいことがあるのですが」
* * *
「このかたはミヤコシさんと言うてなぁ、行き倒れとったのを村のもんが見つけたんじゃ。本の仕事をしとるそうじゃから、デュプロ店長とも、話が合うじゃろう」
スーツの男は村長の家のもう一人の客人だった。
「なんと極東からはるばる来なすったそうじゃ」
夕食後のお茶の席で、村長はミヤコシをぼくらに紹介した。ぼくらは客間のカーペットに座って昼の話の続きをすることになった。
「先ほどは失礼いたしました」
ミヤコシから両手をそろえて名刺を差し出された店長は、その珍しい作法に目をしばたたかせていた。
「スワコ・ブックマークス……スワコって言や極東の大企業じゃねえか」
名刺には見覚えのある企業ロゴが刻まれていた。電気とネットワークのあるところに住んでいれば、この山と湖のマークを知らない者はいない。ぼくが使っているリーダー端末にも、店長愛用の腕時計にも、麓の店で使っている店頭ポップ用のプロジェクターにも、小さくこのマークが刻まれている。
「いえ、その系列の、末端です。小さなものですよ。弊社はリーダー端末に配信する書籍の編集を主な業務としております」
「それが紙の名刺とは意外だな、アナクロだ」
「うちの部署はしばしばオフラインで動く必要がありまして。ほかの部隊はみんなプロフィールデータですね、やはり」
ぼくはミヤコシの名刺をもう一度見た。極東の複雑な文字が詰めてある下に、英語でアーカイブ調達部第二セクションと書いてある。
「で、その極東の本屋さんが、なんでこんな山の中にいるんだ」
「お話を聞いていただけると?」
店長は腕を組んだ。
「聴くだけだ、街に帰ったら酒の肴にする」
ミヤコシは笑った。いまやミヤコシには昼間のふらふらとした様子はなく、形の崩れたスーツ姿でむしろ堂々としていた。
「それはコンテンツ屋として光栄です」
ミヤコシがぼくらに聞かせたのは、面白くも胡乱な話だった。
ミヤコシがこの山に来たのはその肩書き通り、『商材の調達』が目的だった。彼の仕事はリーダー端末に配信する新刊の素材を調達すること。つまり未だネットワークに載せられていない物理メディア――紙の本を収集することだ。
「たとえば、リコ君。きみがさっき読んでいた本。あれには元のテキストデータがあり、そこにエンジニアが音をつけ、VRアーティストが映像をつけている。うちはそうやって演出豊かな書籍を作り、きみのリーダーに配信しているんだ」
スワコ・ブックマークスはほとんどあらゆる紙を収集対象としていた。ぼくらが売っているような絵本や小説、雑誌や画集の古本だけでなく、ポスター、フライヤー、パンフレット、調査レポート、故人の手記。とにかく、なんでもだ。
ある日ミヤコシは仕入れた物理メディアの品定めをしていた。売れるような書籍にできるかどうかを判断して、制作部門に送るためだ。その中に古い日記帳があった。
日記によるとその人物は気象観測を仕事としていた。一年の半分を山の観測所で過ごす間、その人物の楽しみと言えば麓から持ってきた紙の本だった。初夏に何冊かの本を持って登り、初冬に下山するときには観測所に残した。過酷な天候の中で下山するには装備を軽くする必要があったからだ。
それを繰り返すうちに、観測所にはちょっとした書庫が出来上がったというわけだ。
「リーダーなら持って降りられたのにね」
「バカ野郎、まだ海水面がずっと低かったころの話だよ。リーダーなんかねえよ」
ぼくと店長のやり取りを聞いて、ミヤコシは上品に微笑んだ。
「正確には、その原型はありました。最初はコミュニケーション端末として普及したようですね」
未だ海中に没していない物理メディアの集積。ミヤコシの心は躍った。ミヤコシは直ちに海外出張の準備をした。
「この山の頂上に、その観測所があるというわけか」
「そうです」
「ふうむ、山頂はなかなか村のもんも行きませんで。そんなものがあるんですかのう」
村長は首をひねった。
「弊社の衛星が山頂付近に建物の影をとらえました」
ミヤコシが麓で最も大きな街――つまりぼくらが住む街だ――に入ったのが二週間前。そこでガイドとポーターを雇った彼は、そのまま山頂の観測所を目指した。
「ところが、情けないことに道中で体調を崩してしまいまして。雇った連中は私を路上に残し、荷物を奪って立ち去ったのです」
「村のもんが担いできたときにはそりゃあ驚いたわい。顔色も良くなって、ひと安心じゃの」
村長はからからと笑い、ミヤコシは頭を掻いた。店長は腕を組んだ。
「雇った連中はどうした」
「下山したのでしょう。ふざけてる」
こんなところにこんな格好でやってきて、それで病気になられては、周りはたまったものではないだろう。
「なぜそんな顔をするんです。この土地には仕事に対する責任というものがないんですか」
ぼくは露骨に呆れた顔をしていたらしい。ぼくは弁明しようとしたが、その前に店長が言った。
「ふざけてんのはあんただろ。山ナメやがって。誰だってバカの巻き添え食って死ぬのはごめんだ」
「それは……標高のみでは判断しきれない地形条件があったことは認識しています」
店長はお茶を一口すすって茶碗を置いた。
「俺たちに帰った連中の代わりをさせようってつもりだったんだろうが、ダメだ。悪いこた言わねえ、ここでゆっくり養生して、おとなしく帰れ」
「デュプロさん」
店長はミヤコシの声には応じず立ち上がった。
「ミヤコシさんとやら、茶飲み話としちゃあなかなかだったがな。スーツ姿のトレジャーハンターと登山なんて、堅実に生きたい人間にゃ、ロマンのありすぎる仕事だよ。リコ、もう寝るぞ。明日には山向こうの村まで行かにゃならん」
ぼくは店長の後をついて客間を出た。ミヤコシは両手を膝の上で握って、じっとカーペットを見つめていた。
* * *
翌朝は霧が出た。装着したアシストスーツは結露し、鈍く光っている。コンテナは密閉されているから本が濡れる心配はないが、蓋を開けるときは注意が必要だろう。
「店長、あれ」
「見るんじゃない」
店長はぼくの隣で渋い顔だ。スキンヘッドも霧の中で訝しげに霞んでいる。
ぼくらの少し後ろをスーツ姿の人影がついてくる。背には小さな袋を背負い、スーツの上には毛織のポンチョ、足元はブーツに変わっている。
「野郎、帰れって言ったのに」
「どうする?」
「無視しろ、無視」
そう言われても気になるものはどうしようもない。ぼくは石ころだらけの山道を歩きながら、時折後ろを見た。背中のコンテナ越しに見る風景は霧が薄くかかっていて、その向こうにスーツ姿の人影がぼんやりと浮かんでいる。やがて人影は身体を丸めがちになり、遅れ始めた。
山道を半分ほど登って、そろそろ昼にさしかかろうという頃になって、とうとう人影は地面にしゃがみこんだ。
この辺りまで登ってくると人はほとんど通らない。行き倒れたらもう誰にも発見されないだろう。ぼくは霧の中を引き返した。店長の舌打ちが聞こえた気がする。
ミヤコシは路傍の岩に体を預けていた。
「や、やあ。奇遇だ、ね」
ミヤコシは視線だけでぼくを見上げた。一単語ごとに背中で息をしている。
「わ、私も。登る、からね、道、一緒、なんだ」
「知ってるよ……」
ミヤコシは立ち上がろうとして再び座り込んだ。ぼくは手を差し出したが、ミヤコシは手振りで断った。口を利くのも辛いようだ。
店長が不機嫌な顔でやってきた。
「懲りねえなあ、あんた」
店長はミヤコシの荷物を下ろしてやり、背中に手を置いた。
「いいか、ゆっくり深呼吸するんだ。ゆっくりだぞ。意識して、ゆっくり」
店長は自分の荷物から小型の酸素ボンベを取り出し、ミヤコシに吸わせた。
「あんたどうしても行くってんだな。仕事に対する責任ってやつか」
ミヤコシは酸素ボンベを外して立ち上がろうとした。店長が両手でそれを抑えた。
「まだ座っとけ」
あたりの霧は次第に濃くなってきた。
「なあ、あんた。命あっての物種って言うだろう。あんた、死ぬつもりかい」
「私は、あの蔵書を」
「そもそも、首尾良く山頂に着いたとして、そんで書庫があったとして、あんたどうする。どうやって持ち帰る。本の山を」
店長はミヤコシを諭すように言った。
「そりゃあ、持ち帰ったらあんたの会社は大儲けだろうよ。でもよ、自分の命まで張ることかい」
「私が本当に欲しいのは、一冊だけです」
「一冊?」
ぼくと店長は顔を見合わせた。店長はため息をついた。
「なあ、俺はよ、何もあんたが心配なだけで言ってるわけじゃねえんだ。俺の信条にも関わるんだ」
ミヤコシは顔を伏せたまま店長の言葉を聞いた。店長は話を続けている。
「あんた、本を持ち帰ったら切り開いてデータ化するんだろ。まだ読めるもんを、ごみにしちまってよ」
「たしかに、その点では、あなたの店と競合するかもしれません」
「あんたにゃ悪いがな、俺はリーダーってやつが好きになれん。若いもんにはあれが普通だがよ。ネットワークで売れるサイズに話を編集して、派手な音と映像で行間を勝手に埋めて、それを安い値段でバンバン売って――」
「私はそんなことのために行くんじゃない!」
ミヤコシは店長をまっすぐに見上げた。青白い顔で息も絶え絶えの男と、スキンヘッドの偉丈夫がぼくの前で対等に睨み合っていた。
「……失礼しました」
ミヤコシは姿勢を正して座り直し、両手を地面に置いて頭を垂れた。
「お願いします。あなたがたしか頼める人がいない」
「おいやめろ。その頼みかた、あんたの国じゃそれ」
店長は困惑して両手を振った。ミヤコシは頭を垂れたまま話し続けた。
「観測所にあるその一冊を、私はなんとしても持ち帰りたいんです。あれを他人の手に渡さないために、今、自分で、持ち帰らないといけないんです」
「やめろって言ってんだろ、大の男が軽々しくやることじゃねえ」
店長はミヤコシの頭を上げさせた。ぼくには店長の言う『頼みかた』の指すところは判らなかった。だが、ミヤコシの真剣な表情は恐ろしささえ感じるものだった。目的の一冊を手に入れる、それ以外のことは考えていない顔だと思った。
「その一冊って、どういう本なの?」
ぼくはおそるおそる聞いてみた。
「例の日記の主によるフィールドワークの記録です。あの日記の中で、持ち帰らなかったことを悔いていました」
「出版物じゃねえのか」
「手書きのノートだと思います。あの日記の主は暇なときには近隣の村を周り、村の老人たちから古い伝承を聞き、書き留めていたんです。山頂には、百年以上前の村人たちが伝えていた物語が残っています。今の村人からは聞けない物語が」
「聞けない?」
「村で寝込んでいる間に、聞いてみたんですよ。村には昔話を語れる人はもういなかった。老人たちが幼い頃に祖父母から聞かされた、その情景だけが記憶されている」
ミヤコシは懐から折り畳んだ紙片を取り出した。日記帳の見開き複写をプリントアウトしたものだ。
「『……観測所も、もう残っていないだろう。あのとき山の老人たちから聞いた、雲間を翔ける竜、裁きの雷、雨を降らせる恵みの神、森を駆ける鹿の王の記憶。街も、人も、心も。何もかもが戦火に舐め尽くされてしまった今になって、あれを置いてきてしまったことが悔やまれる。あれはおそらく一番の宝だった』」
ミヤコシはぼくらにそれを読み聞かせて、静かに息を吐いた。
「でも観測所は残っていました、今も。私が話せることは、これで全てです。私はなにがあっても、それを読み、そして誰かに読ませる」
店長は霧で濡れたスキンヘッドを拭った。
「なぜ俺たちに頼む」
「村でリコ君から本を買う子供たちを見ました。とても嬉しそうにしていた」
ミヤコシは静かに言った。
「いい店です」
店長はしばらく黙っていた。
「なあリコ、お前どう思う」
その日記の何がミヤコシをここまで連れてきたのか、ぼくには想像がつかなかった。そのノートを持ち帰って、彼がリーダー書籍を作る以外に何をしようと思っているのか、それも見当がつかなかった。
ぼくは先ほど恐ろしささえ感じたミヤコシの表情を思い出した。その中には、本を選ぶ村の子供に近い純粋さと、リーダーを見る店長の苛立ちに似たものが、ひとつの意志を形作っているように思われた。
「ぼくは……この人放っといたら絶対下山しないと思う。次の村に着くのが遅れるけど、半日くらい寄り道したって、別に」
店長の眉間にしわが寄った。
「ぼくは正直、紙の本なんて古すぎるって思ってる。でも、そのノートに書いてある話は、ちょっと読んでみたい」
店長は、そうかと重々しく頷くと、腕を組んだ。
「山頂に書庫があるってのは確かなんだな」
「ええ」
「わかった。あんたがその一冊を手に入れるのを手伝ってやる。ここから、山頂に行って、さっきの村に戻るまでだ」
ミヤコシは息を飲み、店長の顔を見た。
「その代わり、書庫に状態のいい本があったら報酬として貰っていく。いいな」
「ありがとうございます!」
「商談成立だ」
霧の中、店長はミヤコシに右手を差しだした。ミヤコシは立ち上がり、店長の手を取って握手をした。
その頭上からなにか妙な音がした。店長はミヤコシに突進し、そのままの勢いで突き飛ばした。店長の立っていたところを人の頭ほどの石が転がり落ちていった。
突き飛ばされて地面に尻餅をつていたミヤコシは岩が落ちてきた方向を見上げて、青白い顔をさらに白くしている。
「落石か。気を付けねえとな」
店長はミヤコシの腕をつかんで立たせると、すぐに先を歩き始めた。
* * *
山頂への道は一旦勾配を急にしたあと、再び緩やかになった。ぼくが先頭に立って、すぐ後ろにミヤコシ、その後ろを店長が歩く。ふだんの行商の道で見るような背の低い木は次第に姿を消し、地を這うような草ばかりになってきた。
霧はだんだん薄くなり、風の中で草花が地面に張り付いている。普段よりゆっくりしたペースで歩いているから、周囲の風景に目を向ける余裕がある。
「……それで、最近読んだのは怪傑ゾロ。VRの馬を呼ぶ声がちょっと変なんだ」
「お前、案外渋いとこ見てんのな」
ぼくは店長の命により、最近読んだ本について話をしながら歩いている。
「馬で走ってくシーンの演出がかっこいいんだよ。わくわくする」
「嬉しいね。ゾロが変な声で馬を呼ぶのは、うちのレーベルだ」
「それで、紙の本が店にあったから読んだんだけど」
視界の端で何かが動いた。薄い霧と岩の間から、人影がこちらを見ている。ぼくは振り向いた。
「なんだ、いつの間に読んでたんだ。あれ冒頭からすごくいいよな。どうだった」
店長はのんびりと応えたが、その表情は緊張している。店長も何か見たようだ。店長は話しながら顎で指示を出してきた。そのまま前を見て続けろ。
「……ゾロの世を忍ぶ仮の姿が、VRの数倍残念な男でびっくりした」
「ああ、そこは難しいんだよ。大昔の映像作品でもそうだけど、かっこいいゾロと同一人物だって、観る側に判らないといけないからね」
ミヤコシの表情も変に緊迫している。
「まあ、基本的にロマンとアクションの……待て!」
店長は荷物を置いて走り出した。ぼくが何かを見た方向だ。店長は大きな岩の影に飛び込み、短い呻き声が聞こえた。
ほどなく静かになって、岩陰からスキンヘッドが顔を出した。
「逃げられちまった」
ぼくらが店長のほうへ行ってみると、そこにはウインドブレイカーやナップザックやストック、 それとアタッシュケースが散乱していた。
「あ! 私のケース!」
ミヤコシはアタッシュケースを拾い上げた。
「あんたのか。山にこんなの持って来る奴、他にいないもんな」
ミヤコシは店長の言葉には構わず、ケースの口を確認した。そこに傷がついているのを見て眉をしかめると、ミヤコシは素早くダイアルロックを回し、蓋を開けた。中ではさらにもう一つの蓋が閉まっていた。内蓋には片手ほどの正方形の中に、厳めしい鳥の図案が描かれている。何だろう。
「こじ開けようとしたのは外側までか」
ミヤコシは表情を緩め、ケースを閉じた。
「荷物、中は確認しなくていいの?」
「ここで広げたらかえって中身を無くしそうだよ。ああ、でもよかった! いちばん重要な荷物だったんです、これ。もう戻ってこないと思ってました」
店長はよかったなと短く言って周囲を見回した。ぼくの見たところでは周囲に人影は無い。
「ミヤコシさん、あんたが雇った連中、下山してなかったみたいだな」
「後をつけてきたんですね」
「麓では何人雇った」
「三人です」
「じゃあ俺が見た人数と一緒だ。追い剥ぎついでにもうひと儲けする気になったのかもしれん。『あれを他人の手に渡さない』ってのはこの事か。あんた、これ予想してたな」
「そんな。紙の本の価値を理解しているように思えなかった。まさか本当に来るなんて」
ミヤコシはひどく動揺している。
「バカ言え。金になることぐらいは解るだろ。うちみたいな商売だってまだあるんだ」
店長は背中の荷物を揺すって見せた。麓の店を発つときにはひどく重かったコンテナは、村々を回るうちに次第に軽くなって、今では振るとゴトゴトと音がする。
「思えば落石のとき、あんたずいぶんビビってたな。人影でも見えたんじゃねえのか」
「でも、紙の本ですよ。登山の荷物にしたのなら、おそらく蔵書のほとんどは当時量産されていたペーパーバックだ。いまどき紙の本屋でも、そこまで良い値はつきません。電子化するにも本文データを正確に抽出するのが難しい。だからVRに加工するんじゃないか。そんなもののために、石を落とすなんて、人の命をなんだと……」
ミヤコシは額を押さえている。
「紙の本が命より重い人、ここに一人いると思うんだけど……」
「私は違いますよ、誤解ですよ。殺してまで取ろうとは思いませんよ」
ミヤコシは両手を振って否定した。ぼくはミヤコシに対して、自分の身を省みないだけに他人の身も省みないのではないかと思っていた。あるいは、こんな事態を想像もしていなかっただけかもしれない。
でもそれは、いま言うことじゃない。
「それより店長、ここにずっと居たら、あいつ戻ってくるかも」
ぼくは山頂を見上げた。冷たい風が霧を散らした。ずいぶん近くなった青空の中に、白い建物が小さく見えていた。
* * *
陽光を反射して白く見えた建物の壁は、近くで見ると灰色に染まっていた。山頂の厳しい気候に何年耐えてきたのだろう。
「着いた」
ぼくはドアノブをひねった。鍵がかかっている。
「ちょっと貸してね」
ミヤコシはドアノブの上に取り付けられた銀色のボックスを開けた。ボックスの中には数字の書かれたボタンが並んでいた。
「下調べは済んでます」
幾つものボタンを押してもう一度ドアノブをひねると、重たい音がしてドアが開き、中の空気が流れ出してきた。
「ここに人が入るのは百数十年ぶりですよ」
ぼくらは静かに観測所の中に入った。
薄暗さに慣れた目で中を見て回ると、そこは当時誰かが住んでいたそのままに時間が止まっていたことが判った。台所の片手鍋と皿、ベッドに畳まれた毛布、ボタンとモニタが並んだ計測機器、そして、本棚。
奥の収納部分に本棚を並べて、ちょっとした図書スペースが作ってあった。
「昔の人はどうやってこんなところにこんなものを建てたんだろう」
ぼくがそんなことを呟いている間に、店長とミヤコシは台所に荷物を置いて本棚を改めている。
「こりゃあ、すげえ。どれもきれいだ。ページ折れもない」
ミヤコシは本棚を一段ずつ調べている。
「意外にレアな本もありますね。デュプロさんとあんな約束を、私は……」
「やらんぞ」
「わかってますよ」
ミヤコシは部屋を横断して机の引き出しを開けた。
「私が調べるべきはこっちです。必要なものだけ頂いて、さっさと出ましょう」
いい歳をして少しはしゃぎ気味の大人二人をよそに、ぼくは百数十年前の人の痕跡を見て回った。倉庫の缶詰には見たことのない食べ物のラベルが貼られていたし、計測機器のコントロールは四角いハードウエアキーが並んだ古風なデザインだ。
ぼくは紙の本が大量生産されていた時代の読書を想像しようとした。そうしてここの主が昔話を集めに行った理由を想像しようとした。
台所の窓の外を見れば青い空がすぐ崖のふちまで迫っていた。その手前の岩場に人がいる。なにか長いものを構えていて――。
「伏せて!」
ぼくは叫んでその場に伏せたが、叫んだのと窓が割れたのと、どっちが先かは判らない。その一瞬前には乾いた破裂音があった。頭上を高速で通ったものはそのまままっすぐ部屋を横切り、机の前に立っていたミヤコシが倒れた。
「どうした!」
店長が図書スペースから怒鳴った。
「あいつら、戻ってきました!」
ミヤコシは横向きに倒れたまま答えて、続けて痛みに声をあげた。脇腹を押さえている。
「リコは?」
「台所にいる、平気!」
とりあえずすぐ返事をする。
床に身を伏せてしばらくの間、あたりにはミヤコシの呻き声しか聞こえなかった。
「野郎、どうするつもりだ」
「本が狙いなら、様子見て入ってくるんじゃ、ないですかね」
ミヤコシのそばの床に、黒い手帳が落ちている。
「リコ君、私のケースを、こっちに」
「ケース?」
「時間がない、早く」
ぼくは言われるままにケースを床に滑らせた。ミヤコシは腕を伸ばしてケースを掴み、よし、と言った。ミヤコシは片手でダイアルロックを開け、内蓋の鳥の図案に血の付いた片手を乗せる。鳥の図案が白い光を放ち、小さな音とともに内蓋が開いた。
中には譜面台のような台座が見えた。ミヤコシは中から小さなアームを引き出して譜面台の回りに立て、黒い手帳を載せた。
「おい、何やってる」
店長が図書スペースから這い出てきた。
「大丈夫だとは、思いますが。下山できなかった場合に備えて……今ここで、ノートを電子化します」
「ヤケを起こすな、今から切り開くのか? 裁断中に踏み込まれたらそれこそバラけて」
ミヤコシは譜面台の端を指で撫でた。微かなモーター音とともにアームが動き出す。アーム先端のノズルが小刻みに空気を噴きだし、吹き上げたページをもう一本のアームがめくる。三本目のアームが赤いレーザー光でページ全体を撫でた。
もう一度空気が噴き出され、アームが動き、ページをめくる。
「おい、これ」
「弊社が……正確には弊社が吸収合併前に開発していた、携帯型高精度データ抽出装置の、試作機です」
「印刷物からの非破壊データ抽出? 旧世紀に無くなったノウハウじゃなかったのか」
「うまく行けば復興するはずでしたが。それも、今となっては、もう」
ミヤコシは床に伸びたまま苦しげに呻いた。
「リコ! 流しにふきんあったろ。持って来い」
ぼくは窓に近づかないように流しの上を探り、指に当たった柔らかいものを取って床を這った。
乾いた破裂音がもう一発、さっきと同じ軌道で室内を横切る。壁には二つ目の亀裂が穿たれていた。
ぼくはミヤコシのシャツを開き、持ってきたもので脇腹の傷をきつく押さえた。木綿の布にプリ ントされた朝顔が赤く染まった。
「そっちは任せたぞ」
今度は店長が台所へと這っていった。
その間にもあのケースは淡々とモーター音を鳴らし、ページを繰っていった。
「リコ君」
ミヤコシの額には汗が浮き、顔からは血の気が引いていた。
「あんまりしゃべらないほうが」
「そうじゃない。これを」
ミヤコシはぼくの手に何かを握らせた。
「サングラス?」
「デュプロさんにも」
ケースの隙間からサングラスがもう一つ出てきた。ぼくはそれを受け取り、台所へと投げた。ミヤコシはケースをそっと窓際へ押しやり、サングラスをかけて窓の下に横たわった。
ぼくと店長も、それにならった。
「絶対に取らないで」
ほどなく、ドアが叩き開けられた。
「よし動くな本屋……」
侵入者の言葉は最後まで続かなかった。店長が片手鍋で殴ったからだ。アシストスーツを着た大男に鍋を振り下ろされ、男はそのまま玄関に倒れた。
店長はドアの影に隠れ、二人目を待つ。
「なんだおい、伸されちまったのか、だらしねえな」
二人目が戸口をくぐる。店長がもう一度鍋を振り下ろした。
「おっと!」
二人目の男は身を引いて鍋をかわす。力任せに大きく鍋をを振った店長はそのまま前によろめき、ライフルの台尻による打撃を受けた。
「よし、両手を上げろ。おい、そこのガキ」
男はぼくにライフルを向けた。
「お前らがここで手に入れたものと、装備をまるっと出してもらおう。変な気は起こすなよ」
店長が頭をさすりながら身を起こした。
「大人しくしろ、ガキがどうなってもいいのか」
「三人目は、どうした……」
「ああ、あいつは逃げちまった。そこの青びょうたんがくたばってなかったんで、こんどこそ口封じをするって言ったら怖気づいたんだ。追剥ぎにゃ向いてなかったな」
男は顎でミヤコシを指した。
「お、こんどこそくたばる一歩手前だな、ん?」
ミヤコシは窓の下に仰向けに倒れたまま返事をしない。その隣でケースがページを繰り続けている。
「おい、何をしている」
ページを繰るアームが停まった。ケース内部からひときわ高いモーター音がして、もう一本のアームが立ち上がった。
「何だこれ、おい、何してる」
男はケースとミヤコシにライフルを向けた。当のミヤコシは弱々しく口を動かしているが、声にならない。
「何だ、言え」
男がミヤコシを怒鳴りつけた。アームが軋むような音を立て、突然室内が白い光に満たされた。男が叫び声をあげる。
サングラス越しの視界では、顔を押さえてうずくまる男の姿と、その背後に飛びかかる店長の姿が見えた。店長は男を鍋で強打する。
室内の光が消え視界が元通りになると、男は床に長々と伸びていた。
「へヘ……」
ミヤコシは笑い、寝転がったままサングラスを外した。
「これさえなければ、製品化できたんですけどね」
さっきのアームは窓のほうを向いて止まっている。
「衛星と可視光通信がつながりました。ノートのデータは数十秒ほどで本社のサーバに送られます」
「何だったんだ、今のは」
「通信を開始する前に、光を遮らない方向を自動検出するんですが、どうにも危ない。でも、これにて、一件落着だ……」
ミヤコシは満足げに息を吐いた。
その後、ぼくと店長は気絶した二人を計測機器のコードで縛り上げ、倉庫に閉じ込めた。
店長はミヤコシの応急処置を終えて、自分の荷物に本を詰め始めた。ぼくは台所の割れた窓を適当な板で塞ぎ、きちんと閉じたことを確認した。窓の外は暗くなり始めている。
「やれやれ、とんだ寄り道になっちまった」
「せっかくだ、少しでも高く売れそうなやつ持って行ってください」
ミヤコシは寝転がったまま笑い、それから呻いた。
「痛むの?」
「実は、気が緩んだら……ものすごく……」
「あんたを医者に連れて行かないとな」
ぼくは観測所の裏手から物干し竿を二本見つけて、店長の荷物から厚手のシャツを数枚借りた。左右の袖から裾に向かって二本の竿を通せば、簡易の担架になる。
「おお、すまんな」
「人を呼んだ方がいいかも。担架も荷物もあるし」
ぼくは倉庫のほうを見た。
「あいつらもいる」
「そうだな」
店長は外を見た。すっかり暗くなっている。
「明日の朝まで持ちこたえられるか」
「ええ。それに、あの道を夜下りるのは無茶でしょう?」
「わかってきたじゃねえか。まあ、一晩、頑張れや」
そういうわけで、ぼくらは一晩をこの観測所で過ごすことになった。
* * *
深夜。
空気がしんと冷えて、時間が止まったかのような静寂が室内を支配している。部屋の隅がぼんやりと明るい。ぼくは毛布を引き寄せてかぶりなおした。
「……悪い、起こしてしまった」
すぐ隣でぼそりと声がした。
「起きてたの」
「まあね」
ミヤコシだ。
別の方向からは店長のいびきが聞こえてくる。
「デュプロさん、すごいな」
「まあね」
それからぼくらは声をひそめて笑った。
「あのノート、持って帰るの?」
「それが目的だったからね。……見るかい」
ミヤコシは片手で黒い手帳を渡してくれた。ペンライトが挟んである。
「大変な量だよ」
ノートを開いてペンライトで照らしてみると、その一ページずつに一つの短い話が綴られていた。竜の話とか、罪人を裁く雷とか、鹿の王と村娘の話とか、そういうのだ。
ミヤコシはぼくがノートを読むのを見ながら、小さな声で話した。
「デュプロさんは、リーダー書籍が気に入らないみたいだけど、まあ、わからんでもないんだ。行間をVRで埋め立てて、作者の意図とか、読者のイマジネーションとか、そういう余地が無いって思うんだろうな」
「そうかなあ」
「でもね、リコ君。きみはうちのVRの怪傑ゾロを読んで、わくわくすると言った」
「うん」
「昔の人は文字だけの本を読んでた。怪傑ゾロだってもとは紙の本だ。当時の人はゾロの活躍にわくわくしなかったと思うかい?」
どうだろう。
「文字がなかったころ、人は物語を耳で聴いて楽しんだ。文字ができてからは、書き留めたり書き写したりしたし、やがて挿絵が付き、大量に印刷もできるようになって、写真が付いた。そのつど物語の持つ情報は詳しくなってきたわけだけれど、それで人のイマジネーションが損なわれたかっていうと、そうじゃないと、私は思う。その時代ごとに、優れた物語がたくさん書かれてきたわけだから」
「そっか」
「それは人の長い歴史の積み重ねだと思うんだよ。古い物語と、新しい表現が、次の時代の人たちを育てるんだ」
窓の外では夜空に星が瞬いている。
「何世代か前に、世界中の本と印刷機が海中に沈んで、それ以来私たちは水没しなかった本と組版データの残りでどうにか食いつないできた。VRのついたリーダー書籍が一般的になってからは、まだそんなに時間がたってない」
「そうなの?」
「デュプロさんや私がきみぐらいの年のころは、文字だけのリーダー端末を使ってたんだ。きみがVR書籍で育った最初の世代だね。そのきみが、VRの書籍にわくわくしたと言ったんだ。そろそろ、私たちは自分の時代の物語を持つべきだと思う」
ぼくはミヤコシの言うことが、なんだか夜空の星のように、遠く澄んだもののように感じられた。
「このノートを残した人も、長い歴史の積み重ねに新しい層を積み上げるために、昔話を集めたんじゃないかなって、そう思うんだ。だから私はこのノートを、今の時代のいちばん新しい書籍にしたいんだ」
「なんか神話みたいだね、この時代に」
ぼくがそう言うとミヤコシは笑い、それから呻いた。
「神話か。そりゃあいい」
夜空には麓の町では見えない数の星々が瞬いていた。
「……神話か」
ミヤコシはそれきり黙ってしまい、ぼくはそのままノートとペンライトを借りて、短い記録を読み続けた。
* * *
翌朝、空には黒い雨雲が出はじめた。ぼくらは早めに動くことにして、まず倉庫の二人組を外に出した。ライフルは取り上げて、胴を縛ったままひとつ前の村まで連れて戻ることにしたのだ。
荷物と本は一旦ここに残して、店長はミヤコシを肩で支え、ぼくはライフルを持って二人組の後ろを歩く。村に着いたら、誰かに医者と山岳警察を呼んでもらうことにしよう。
「じゃあ行くか。雨にならないといいけどな」
店長は二人に背を向けて観測所のドアを閉めた。ぼくはそれを離れたところから見ていて、息を飲んだ。
二人のうちの片方がコードを切っている。ナイフを隠し持っていたのだ。
「店長!」
ぼくが店長を呼んだ時には男はナイフを振り上げて、店長に向かって走り始めていた。
「お前ら、よくもやってくれたな!」
その時、空が急に暗くなった。地面を揺らす轟音と共に、一筋の稲光がナイフに落ちた。
店長が振り向いた時には地面に放射状の跡が残り、ナイフを持ったまま息絶えた男が倒れていた。もう一人の男はその場にへたり込んだ。
ぼくらは結局、完全に戦意を喪失した男に担架の片方を持たせ、ミヤコシを載せて村まで戻った。
村では村長がミヤコシに、あんた災難続きじゃなあと言った。ミヤコシはばつが悪そうに笑って、ふたたび村長の家の客人になった。
ぼくと店長はそこでミヤコシに別れを告げ、ようやく山向こうの村へと出発した。
「なあ、リコ。お前ゆうべ、あいつと何を話してたんだ」
「うーん」
なんだかふわふわとした話ではあったので、すぐには纏められなかった。
「新しい神話を創るんだってさ。あの人」
店長は驚いた顔をしていたが、やがて愉快でたまらんと言った風に笑い出した。
あんなに暗かった空は既に晴れ、神々の時代から変わらない青空が広がっている。ぼくと店長は晴天の空の下、観測所に荷物と本を取りに戻った。
人の歴史の積み重ねを、今の人たちに読ませるために。
<終>