kidd(奈賀井 猫)のぺーじ
パパゲーノのゆくえ
「K2」二次創作(和久井譲介×ドクターTETSU)、2023年
本編から何年も経った未来。ドクターTETSUは帰国した譲介と再会する。
※第460話公開前に構想したものをそのまま書いているので、原作と乖離している部分がございます。
パパゲーノのゆくえ
パパゲーノ:オペラ「魔笛」の登場人物。恋人と引き離されて絶望し、自殺を試みるが思いとどまる。そこから、希死念慮を抱えながら生きている人のことを指す場合がある。
「今日じゅうにT村まで帰るのは無理だろ。宿を取ってあるなら、そこで降ろしてやる」
「それが、まだ。日本に着いてから探せばいいかと思って」
譲介は助手席の窓から、夜の東京の街を眺めていた。葉を落とした街路樹が街灯に照らされている。譲介はフライト・ジャケットの襟元に埋めていた顎を出し、話しながら運転席へ向き直る。
「あのう、たとえばあなたの――」
「オレんとこは駄目だ」
TETSUが間髪入れずに拒否すると、譲介は声のトーンを落とした。
「まさか、廃病院とかに住んでるんじゃないでしょうね」
「……」
信号で車が停まる。ハンドルを握るTETSUは沈黙し、横目で譲介を見た。譲介は眉間にしわを寄せてTETSUを見つめている。
「廃墟に住んでるって話、ほんとなんですか。ひょっとして」
「誰から聞いた。古い話を持ち出しやがって。一也か」
「ソースは明かせません」
「候補は二人しかいねえんだ、吐いちまえ」
「僕にも信用ってものがありますから」
信号が変わる。発車。街の明かりが車内に差し込み、助手席の真面目な顔を照らす。それを見たTETSUの口から低い笑い声が漏れた。譲介が続ける。
「ドクターTETSU。この話が真実とわかったからには、僕は、あなたがいまどんな環境にいるのか確認しなければ気が済まないんですがね」
「至って普通に生活してらあな」
「普通の人って、なんと住所が定まってるんですよ」
「おっと、和久井先生は辛口でいらっしゃる」
TETSUは苦笑し、アクセルを踏む。
無人の駐車場に車を停め、雑居ビルと極彩色の看板がひしめく区画を歩く。乾いた北風が抜けていく歓楽街を、フライト・ジャケットにジーンズ姿でスーツケースを引く譲介と、代わり映えしないコート姿で杖をつくTETSUが歩いて行く。
呼び込みや通行人の間を縫って数分。TETSUは一棟の古いビルへと譲介を案内した。
「譲介。この場所のことは」
「他言無用、ですね」
エレベーターの扉が開くと、正面に埃の積もった廊下とすりガラスのドア。周囲のビルや看板の明かりが窓から差し込み、ドアの張り紙をけばけばしく照らし出す。張り紙にはクリニックの名前と閉鎖された日付、過去の利用者たちへの感謝の言葉が書かれている。この階の、前の契約者が残したものだ。
TETSUはドアを開け、室内の明かりを点けた。譲介には顎で入室を指示する。
「もとは潰れたクリニックだが、今はオレの仕事部屋のひとつだ。好きに見てきな」
しんと冴えた空気が周囲を支配している。
ドアを入ってすぐの空間は小さな待合スペースだ。受付の什器備品には埃よけの布を被せてある。奥には診察室がふたつ、処置室、レントゲン室。ふたつ目の診察室を転用した簡易の病室には、ベッドが一床。どこも依頼があればすぐ使えるように整えられている。
譲介はその場にスーツケースを置いて、奥へと歩いて行った。譲介は一室一室を見て回り、院内の設備を一通り確かめると、待合スペースに戻ってきた。何度も奥へと振り返り、信じられないといった様子である。
TETSUは待合スペースの椅子に座って譲介を迎えた。
「なんだ、驚いてんのか」
「あ、はい……お化けでも出そうな荒れ果てようだったって、聞いてたので」
「一也だな。もうその場所は使ってねえよ。安心したか?」
譲介が頷いた。TETSUは、そりゃ良かった、と応じた。
「今日は泊まってけ。奥にベッドあったろ。そこを使うといい」
「あなたは?」
「スタッフルームに寝泊りしている」
譲介はスーツケースを引いて第二診察室へ向かった。TETSUはそれを見届けると、杖を突いてスタッフルームに向かった。
ドクターTETSUが常駐のスタッフを雇用することはない。内弟子の少年がいた期間はあったが。
だからスタッフルームはTETSUの私室のようなものだ。スタッフルームの一角に休憩スペースがあった。これを改装し、窓辺に長身を納めるに充分なサイズのベッドと、点滴台、作業台を設置している。それ以外は元々あったそのままが残っている。会議机にパイプ椅子、給湯コーナー、ロッカーなど。休憩スペースとの境にパーティションを置くと、廃墟と比べて格段に快適な空間が出来た。
TETSUは休憩スペースの明かりを落とし、杖をベッドに立て掛けて座った。ついでにブーツと靴下も脱ぐ。パーティションの影が落ちた薄暗い中では、窓の向こうにネオンの明滅する通りがよく見えた。TETSUはブラインドを閉じた。
コートを脱ごうとしたところで、ノックの音と譲介の声がした。
「もう寝てますか?」
「いや、起きてるぜ」
TETSUがパーティションから顔を出すと、譲介は静かにスタッフルームへ入ってきた。フライト・ジャケットは脱いで、シンプルなカットソー姿である。
譲介は給湯コーナーにコーヒードリップ用の器具を見つけて、TETSUに視線を送った。TETSUが頷き返すと、譲介は小さなコンロで湯を沸かし始めた。
「豆は?」
「冷蔵庫だ」
湯の沸く音が風に似て響く。譲介はコンロの火を止め、濾紙と豆を敷いたドリッパーに湯を注ぐ。ひっそりと冷えたスタッフルーム。二人で使うには広い空間に、わずかな熱とコーヒーの薫りが漂う。
「どうぞ」
ベッド脇の作業台に紙コップが二つ置かれた。TETSUは片方を取り、ひとくち飲んだ。
「どうした。眠れねえか」
「話がしたくて。あなたと」
譲介は休憩スペースにパイプ椅子を持ちこんで、TETSUと向き合うように座った。
「だってあなたすぐ居なくなるし。次にいつ……次はあるのか……だから連絡がついたとき、きょう一日は、絶対食らいついてやるって」
薄暗い中、譲介は明るい声で話す。TETSUは譲介の声が僅かに詰まったのを聞いた。
「こればっかりはな」
相手も医者だ。気休めを言う気にはなれなかった。
かつて黒須一也と神代一人の助けによって拾った命は、TETSU自身のコントロールによって今日まで細々と繋がれてきた。病状は一進一退。いや、年々の小さな負け分が積みあがっている。病魔を相手にいつまで虚勢を張っていられるか、それは誰にもわからない。
「オレもせいぜい足掻くつもりだが、なるようにしかならねえ時もある。むしろ今までよく……」
「また何も言わずに置いて行かれるのは、嫌です」
譲介は眉尻を下げてTETSUの顔を見た。それから一瞬口を引き結び、TETSUの顔をもう一度見た。
「僕と一緒に、アメリカに来ませんか」
TETSUは譲介を見た。譲介の少し力んだ目元がすがるように見えた。
「お互い、目と手の届くところに居たらいいと思うんです」
「あんな手紙を貰っておいてなんだがな、譲介。人間なんてのは勝手に生きて勝手に死ぬもんだ。人間は弱い」
そうだ、人間は弱い。TETSUは心の中で繰り返した。
父も、兄も。完璧な肉体と精神を備えていたあの男も。みな勝手に死んだ。
薬学的アプローチにより肉体の弱さに対応したところで、いずれは破綻する。精神が付いていかないからだ。あの研究も志半ばで止まってしまった。
いまのTETSUには、かつて求めた力を追うことはできない。引き延ばされた生を、死神との戦いに費やすばかりだ。いつか来る敗北の日まで。
自身を含め、人間はみな弱く、孤独である。
「長く生きてりゃ喪うモンもそれなりにある。置いていかれることなんかいくらもある。だから――」
「好きなひとの見送りくらいさせて欲しいって言ってんですよ、僕は!」
作業台の上で二杯のコーヒーが水面を揺らした。
譲介はTETSUと視線を合わせたまま動かさない。外からは酔っぱらいのご機嫌な歌声が聞こえた。歌声は次第に遠ざかっていった。
ややあって、先に口を開いたのは譲介だった。
「あまり、動じてませんね」
「いや動じてる、これ以上ねえってくらい動じてるぜ」
TETSUは額に手を当て視線を落とし、小さく頭を振った。これがあの危うげな少年のころなら。恋に恋する年ごろの子供のうちなら。勘違いだと年長者らしく諭してやることも出来たのに。
「ああ、マジかよ。今になって言うのかよ。もう分別も付いた歳だろうに、なんで、まだ、そんなこと」
「僕、この話初めてするんですけど」
TETSUは顔を上げた。譲介の言葉は無視して続ける。
「解るだろ、オレはやめとけ。神代一人が泣くぞ」
「K先生は関係ないでしょ」
「オレがどうしてお前を神代一人に頼んだと思ってる」
「僕があのときどれだけ泣いたと思ってるんです」
「んな事ぁ知るか」
譲介がTETSUの示したものとは異なる未来を見はじめたあの頃。陽のあたる場所には立てない闇医者に、他に何がしてやれただろう?
「……悪い、言い争いがしてえわけじゃねえんだ」
「そうですね……」
譲介の座るパイプ椅子がきしりと鳴った。二人はそれぞれ、冷たくなったコーヒーを飲んだ。TETSUはひとくち、譲介はひと息に一杯。譲介は深く息をついた。
「わかってます。僕はK先生のところに行って良かった。診療所の皆さんも、村の人たちも、みんな僕によくしてくれた。故郷ができたみたいでした」
「故郷、か」
それは遠くにあって思うもの。TETSUにとっては二度と踏まない湿った雪のことである。譲介にとっては、そもそも無かったものだ。
「いまの僕が身に着けている技能の多くはK先生から教わったものだし、留学だってさせてもらえました。一也より遅れはしたけど、どうにか医師としてのスタートラインに立ってます」
そうして譲介は一時的にではあるが日本に戻ってきた。
「覚えてますか。僕と一也とで、右胸心の……」
「お前が日本で最後にやったオペだな」
「あなたオペの途中から居なくなってたでしょう。ちゃんと縫合まで見て欲しかったな」
「見なくてもわかる。最後まで完璧だったろうよ」
「最初の師として、嫉妬してもいいですよ。K先生に」
「しねえよ。お前の努力の結果だ。もっと誇れ」
譲介は少し頬を染めて笑った。TETSUの内弟子だった頃の譲介がこんな顔を見せたことは無かった。当時の譲介は、来し方も行く末も知らず、その日その日の居場所を守るのに必死なだけの、ただの子供だったのだ。
手術の日。あの日こそは譲介の門出の日だった。譲介はすでに己の来歴を知り、行く先を決めていた。技量も十分。あとは勝手に未来を拓いていくだろうと、TETSUは感慨深く譲介を見た。
一方で、TETSUが心に秘めていることが、ひとつ。二人の息の合った手術手技に、TETSUはあり得ない夢を見た。もう居ないあの男と自分が並び立つ幻想を。
TETSUは分不相応なほどに幸福だった。後はひとり静かに退場するのも悪くなかった。大団円、そのはずだった。
――案外、あの手紙が効いたのかもしれねえ。
TETSUの頭を、ふと非科学的な考えがよぎる。結局のところ、この身を今日まで繋ぎ止めたものは何だったのか?
TETSUは目を細めた。
「ほんと、大したモンだ」
譲介は昔から見目の良い子だった。いま、その整った顔には精悍さが加わり、体格も良くなっていた。剥き出しの刃物のような危うさはすでに無い。すっかり大人になったと、TETSUは当たり前のことを思う。
譲介は微笑んで首を振った。
「K先生や村の人達、朝倉先生、一也、宮坂……縁に恵まれていまの僕がいる。みんなの愛情があって、僕は僕になった。その始まりには、ドクターTETSU、あなたがいた。僕に最初に愛をくれたあなたのことを、僕は愛しています」
TETSUは何か言い返そうとして、結局何も言えなかった。譲介は穏やかな目でTETSUを見ていた。
「あなたの抱えるものを僕に分けてください。病気は代わってあげられませんが、僕なら一緒に戦うことが出来ます。喪われたものがあるというなら、代わりに僕がそれを埋めてみせます。あなたを放って勝手に居なくなることもありません。いつか死神があなたのところに顔を出したら――中指を立てて笑って迎えてやりましょう。面白おかしく生きてやったぞ、ざまあみろ! って」
ある施設の庭でTETSUがナイフを持った子供と出会ってから、長い時が過ぎた。自分のことさえ手に余っていた少年は、いつしか青年となってTETSUの生涯を背負おうとしている。死神さえも相手取ろうという強さを備えて。
TETSUが若き日から求めてきた命題。
人間はもっと強くなれる。どうやって?
いまここに、答えがある。
「どこか、痛みますか」
譲介がTETSUの顔を覗き込んでいる。TETSUは首を小さく振った。
「だってあなた泣いてるから」
譲介の手がTETSUの顔に伸び、震える指が頬を拭った。
「……譲介」
TETSUは喉から絞り出すようにして名を呼んだ。
「抱きしめても、いいか」
「ええ、もちろん」
TETSUはベッドから立ち上がって譲介の肩に腕を回した。譲介もまた席を立ち、TETSUの背にそっと腕を置いた。
窓の外では空が白み始めていた。しののめの薄紫の空がやがて眩しい朝空に変わり、ブラインドの隙間から入る光が壁に縞模様を作っても、二人はいつまでもそうしていた。
<終>